背筋がGUUUN 美姿勢座椅子 エグゼボート (送料無料) 座椅子 背筋がグーン 骨盤 ストレッチ 下半身 腰痛 猫背 背筋 横隔膜 歪み リクライニング 在宅 テレワーク二重焼きが手元になかったので、大堀相馬焼のぐい飲みです。
「道の駅なみえ」で見つけ、気に入って買ってしまいました。
では、説教メモです。どうぞ。
●年間第6主日
聖書箇所:創世記3・16-19/Iコリント10・31-11・1/マルコ1・40-45
2021.2.14非公開のミサで
ホミリア
大堀相馬焼というのを初めて知ったのは、ハンセン病の国立駿河療養所でのことでした。
わたしが神学生の頃、東京カトリック神学院の神学生たちは毎年、静岡県御殿場市にある神山復生病院というハンセン病の療養所を訪問していました。ここは1889年、テストウィード神父というパリ外国宣教会の神父によって始められたカトリックのハンセン病病院で、戦前、神学院の教授であった東京教区の岩下壮一神父が院長を勤めたこともあって、東京の神学院とは長い間、関係が深かったのです。今はもう元患者の方もほとんど残っていらっしゃらないのですが、わたしが神学生の頃はまだかなり多くの方が生活しておられました。
神山復生病院では、ある種、修道生活のようなことが求められていて、患者同士が結婚することは認められていませんでした。そのため、結婚を希望する患者は同じ御殿場市にあった国立の駿河療養所に移ることになっていたのです。それで、駿河療養所にもカトリックの共同体ができていき、聖堂もありました。そこでも一緒にミサに参加させていただくことがありました。ミサの後、一緒にお茶を飲みながら、お話しさせていただくのですが、その時に、元患者の多くの方が使っていたのが、大堀相馬焼の二重焼の湯呑みでした。器が二重になっていて、熱湯を入れても外は熱くならないのですね。
ハンセン病の方は末梢神経が冒されて、触ったものの熱さを感じることができず、たとえば熱い湯呑みを持つと火傷してしまう。そういう方々にとって、この大堀相馬焼の二重になった湯呑みはとても役に立つものだと教えていただきました。わたしは浜通りに来て、大堀相馬焼の焼き物を見た時、すぐにあのハンセン病の方々のことを懐かしく思い出しました。
今から思えば、ハンセン病の患者に対する国の誤った強制隔離政策があり、それを是認した上でカトリックの医療ケアや司牧が行われていたわけで、患者の人権という観点から見たら、やはり批判されなければならない面がありました。
近代の日本では先程の神山復生病院のように、キリスト教が当時の日本で見捨てられていたハンセン病の方々に先駆的に関わって、お世話をしてきた歴史があります。しかし、日本のカトリック司教団は2019年に「ハンセン病に関わる日本カトリック司教団の謝罪声明」を出しています。その中で次のように述べられています。
「ハンセン病について世界では、1943年に特効薬プロミンが開発され速やかに治癒する病気になったことを受け、1956年の『ローマ宣言』(患者の保護及び社会復帰に関する国際会議決議)で、『らい予防法』のような差別的な法律の撤廃が宣言されました。にもかかわらず、日本の国策は変わることなく、終生絶対隔離が続けられました。
日本の司教団は、ハンセン病患者を隔離し絶滅させるという国策に対し反対することもなく、入所者のみなさまの奪われていた権利の回復を求めるのでもなく、人生被害を増大させたことに気付かず、当事者の権利を守る視点に立てませんでした。そして、ハンセン病患者・回復者、その家族に対し、長い間、言葉にできないほどの苦しみを与えてしまったことを深く反省します。」
すごく苦しい声明だったと思います。先輩のカトリック信者の中に、本当にハンセン病患者のために生涯を捧げてきたような方がたくさんおられる。それでも、教会として謝罪しなければならない過ちを犯していた。それはどんなに素晴らしい療養所にしようとしていたとしても、キリスト教的なユートピアができたと自負していても、隔離の必要もない人をそこに閉じ込めておくことは、とんでもない人権侵害だ、という観点の欠如でした。なぜ、そんな風になってしまったのか? 分かりませんけれど、もしかしたらいつの間にか、「この人たちは弱い人たちで、わたしたちがお世話をしなければならない」と思い込み、療養所の存在を当たり前にしてしまったのではないか、とわたしは思うのです。
それは今の女性差別問題ともつながっているように思います。男性から見て、女性は弱く保護しなければならない存在だということになると、その女性は立場を弁えて自分の意見を言うべきではない、ということになる。お前たちのことは俺たちが決めてやるから、黙っていろ、そういう考えが生まれてくるのです。人としての自由を、自己決定権を平気で奪ってしまうのです。
いや、それはオリンピックだけの問題ではないのです。わたしたちは苦しんでいる人をなんとか助けたい。少しでもお世話をしたい。そう願います。でも、そう願っていると、いつの間にかその人を弱者として自分たちの下に見て、その人たちがわたしたちに従うのは当然、自分の意見をもったり、自己主張したりするのはとんでもない、ということになってしまうかもしれません。それは本当にその人を人として尊重していることになるのか。本当に厳しいけれど、真剣に問わなければならないと思います。
さて、今日の福音です。
イエスはたまたま出会った重い皮膚病の人をいやしました。そしてこうおっしゃいます。
「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
イエスはこのような不思議ないやしによって自分の評判が広まることを望んでいません。ただただ、彼が苦しみから解放され、自分の人生を取り戻すのがイエスの望みだったのでしょう。レビ記の規定では、当時、この病の人について、こう規定されていました。
「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚(けが)れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ13章45-46節) 。
この人は汚れた人間とされ、神からも人々からも断ち切られているのです。イエスから見れば、それは決して神の望みではありません。この人も神の子としての尊厳を持って生きられるはずだ、イエスはそう確信してその人を「清い」と宣言します。「祭司に体を見せる」のは彼がもう「清くなった」と宣言してもらうため、そして社会復帰するための宗教的な手続きもするようにおっしゃっています。イエスは彼が本当に人として、自由に自分の人生を選べるように、サポートしていると言えるのではないでしょうか。
出会う人・関わる人を尊重するとはどういうことか、私たちも本当に問われていると思います。